登場人物が実際日本舞踊を踊っていないけれども
踊っているシーンがうつるとき、
顔がアップになったり、吹き替えの人の後ろ姿がうつったり。
あるいは、楽器を実際奏でていないけれども
音とかぶせて奏でているふりをするシーンが映し出されるなど
ありがちなことであり、
皆さん想像ができると思います。
顔やスタイル、お衣裳の美しさでごまかすことはできても
例えば日本舞踊など舞う姿は「嗜んでいない」ということが
わかる人にはどうしてもわかってしまいます。
結局、その一瞬のために、少し品のない表現をすると「ごまかすため」に
それまでにどれだけのことをするのか、
本番にどのように臨むのか、見せるのか
ではないでしょうか。
そこに、その人本人の姿勢が見えます。
いつかまわってくるための時代劇のために普段から日舞を学ぶのか、
いつかまわってきたときには、きちんとごまかせるようにその方法を学んでおく、
など、様々かと思われます。
しかし、その一瞬の「一舞」のために(大げさですが)どれだか命を懸けられるのか。
それはどんなことにも通じることです。
ある時、ふとある画像を見てそのように思ったことがあります。
その女優さんはとても美しく、お衣裳もきれいで似合っていました。
しかし、その所作は一瞬でしらけるものにうつりました。
そして、ふと考え込んでしまったのです。
今、「議員」として、その「一舞」に命を懸けられているのだろうか、と。
初めて当選し、「議員」となって臨んだ議会で
自分自身が全く知らないようなことでも「〇か☓」を迫られる責任のある仕事なのだと
突き刺さるくらいの衝撃で自らを鼓舞した最初の年から
歳月を経て少しは
「慣れること」に慣れてしまっていないだろうか、と
振り返ってしまいました。
新年度が近づくこの時期、新年度予算等含めたテーマの今日出かけた勉強会で
地方財政や地方債などすぐに理解するのは難しい。
何か教養のようなものというより、それは積み重ねていくものであると。
そのようなお話があったときに、
前段で書かせて頂いた「あるシーン」を見た時に感じたことを思い出しました。
初心を忘れることなく、一生懸命やることだと、改めて誓った次第です。
でも、「一生懸命」も慣例に縛られることの多い議会のなかでは嫌われることもありますが、
それはまた別の機会に…(*^^*)
