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2018年04月28日

女が変える政治の風景

コミスク等の総会の後、
ドーンセンターへ出かけてまいりました。

中島かおりが政治を志した原点を思い起こさせる記憶の一コマがここにはあります。

さてさて
歴史的に女性たちは表舞台には登場してこなかったようです。

政治思想の立場、経済学の立場=生産者中心主義

紀元前
プラトン(哲学者)によると
どのようにすれば国家は、それだけのものを供給するにたるだけのものとなるだろうか。
(略)
最も必要なものだけの国家の成員は
4.5人ということになるだろう。

プラトン『国家』には
モノを生産する人しかいない。
モノを生産できない人

子ども、高齢者、障がい者はいっさい「国家」には登場しない。

そうした人をケアする人も登場しない。

政治思想の特徴=「はじめに、男が一人ありき」
EX.ホッブズ『リヴァイアサン』

小さな政府型の
リベラリズムが想定する「個人」
自立=自分自身をケアし、
責任を負い、不必要に他社に依存しない。
・経済的自立
・自分の幸福は自分で決める、選択する権利
・自己規律的・抑制=政府に「余計な」負担をかけない
⇒しかし、こうした個人を育てるためには、
「健全な家族」が必要
⇒しかし、心遣いに満ちた愛情を注いで、
こうした「立派な」個人を育てようとするものは、
その態度や実践から、
半人前扱いされてしまう
=女・子どもとひとくくり

経済の世界においても、女性たちの営みは見えてこない

『The PRICE of MOTHERHOOD』によると
女性たちの営みは完全にシャドー・ワークであるが
17種類の専門業として換算すると
年収$508500!(ドルです)

社会にとっても必要な人材を育てているのは
母親業の担い手である。
なのに、経済学は、母親たちの貢献を
まったく考慮に入れない。

ケア労働に対する4つの神話
@ だれでもできる。
A 家族を支えるために、働かなくてもいい。
だから、ほとんど収入がなくてもやっていける。
B ケア労働は、たいした仕事ではない。
C わたしたちは、すべて母親に向いている。
ただ、わたしたちができる最善のことをしているだけ。

福祉国家は
一度もケアする社会ではなかった
=どうすれば、一人ひとりがより善く生きるwelfare社会を
構想できるのか。

近代国民国家と近代民主主義の始まりは
フランス革命とともに始まるが
民主主義は果たして理想のものであったのか。
民主主義の力には常に危険がつきまとう。

ルソーの女性観とは。
「男と女はお互いのために作られているが
相互に依存する度合いは平等ではない。
男は自分の欲望のために女に依存するのに対して
女は自分の欲望と必要の両方のために
男に依存する。
男は女なしでもやっていけるが、
女は男なしでやっていけない。
女が身を持ち崩さずに生きていくために
必要なものを得るためには、
男がそれを与えなければならない。」

「男が課した不当な不平等について
文句を言う女は間違っている。
この不平等は人間が作り出した制度ではない。
あるいは、少なくとも
偏見や理性が作り出したものではない。
自然が子どもを託したのは男女のうち
女なのだから
女は子どものために夫の要求に
添わなければならない」
『エミールより』

昨今何かと世間を騒がしている「セクハラ」を通り越して
「不平等」を「是」といていることについて
今の世の中ならバッシングを受けるような内容だと思いませんか。
これが男社会の本質といったところなのかもしれません。
しかし、より誰もが公平に扱われ、
尊厳ある社会へ構想していく現代において
何が必要とされているのか。

自己責任論から社会への責任論へ
みな誰もが、誰かに依存した存在であり、依存するであろう

みなが労働者として
市場労働にでていけばいいのか?

いや
ケア労働をより善く保つ

人をよりよく育てるために、
社会や国家が存在する
⇒社会・国家の問い直しへ

以上、
なかなか難しいお話でしたが、
多分本質はシンプルなのだろうと想像します。

属性によって、誰かが偉くて誰かが偉くない
ということではないことを
当たり前としていく社会の構想を
描いていけたらいいですね。

芦屋市議会議員 中島かおりホームページへのリンク

posted by 中島かおり at 22:37 | かおり通信
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